
手術を断ってしまいましたが、母も私もガンに負けることはあきらめていません。私はガンが治った!などの本を買いあさり、良いと思ったものは購入していました。健康食品が中心でした。月に何万円も使ったこともあります。
いろいろと試しては、また新しく購入したり、何とか母のガンを治してあげたかった、その一心でした。しかし現実は甘くありません、少しづつがん細胞が大きくなっていました。
ネットでもがんを治療する病院を探していました。家の近くにがん細胞を、外から焼くという病院があり、すぐに母を連れて診察をうけました。外から焼くといっても、放射能のような高度な治療ではなく、簡単な機械で熱するような治療でした。
ダメでもともとですし、治療に通うように母を説得して月に1〜2回ほど受けていました。しかし、良い効果は出ずに、どんどんと細胞は大きくなっていきました。首のリンパなので、中の血管を圧迫するということはなかったので、すぐに痛みはありませんでした。
母もまだ完治をあきらめていませんでしたので、私が買ってきた健康食品も積極的に飲んでいました。しかし治る様子は無く、だんだんとガンの痛みの症状がでてきました。
私もあきらめてはいませんでしたが、母の姿を見ていると辛くて、泣いてしまう日々が続きました。
だんだんと痛みが出てくるので、前に手術した病院に行き、診察を受けるともう手の付けようがないと先生にいわれました。痛みを抑えるために、きつめの痛みどめをもらい飲むようになりました。
この頃から母もだんだんと、ガンを治すという意欲がなくなっていきました。私はあきらめずに、いろいろな情報を探しまくっていました。
しかしそんな簡単にガンが治る訳がありませんでした。それでもまだ私はあきらめてはいませんでした。
がんの痛みが強くなり、薬を飲んでいても少しづつ効かなくなっていきました。細胞が変色して見るのも痛々しくなっているので、ガーゼで隠すようになりました。
母はガンを治すという意欲はなくなっていましたが、落ち込んでしまう訳でもなく死が恐ろしいと動ずることもありませんだした。
人間は誰でも必ず死は訪れる。寿命があるので月日は人それぞれ。大事なのは死ぬまでにどう生きるか、どう生きたかと母は言っていました。今となっては私もその意味を理解していますが。
がんに効く食材や食品。がんが治った健康食品など、まだ私はあきらめずに買いまくっていました。
母の首のがん細胞はとうとう拳ぐらいの大きさまで大きくなっていました。外に見えるがんなので他に転移もありませんでした。
どんどんとがん細胞は大きくなり、血もにじみ出てくるようになりました。そして、急に血管が破れて細胞から血が噴出してしまいました。すぐに救急車を呼んで病院で外から止血をしてもらい、何とか血を止めてもらいました。
後から母に聞いた話ですが、血があふれ出している時はすごく気持ちよかったそうです。意識を失かけていたそうですが、痛みもなくふわーっとし感じだったそうです。あのまま死んでいくのも気持ちよかったと言っていました。
その後少し入院をして、毎日止血をしてもらっていました。ただし大きい病院だったので長い入院はできず、家に帰ってきました。
母もこの頃から自分の死がすぐに近づいていると分かっていたようです。私は絶対に母を死なせたくないの一心で、さらに高額な健康食品などを購入していました。お金が足らなくなったので借金もしていました。
母は昔、戦争の話をよくしていました。特に特攻隊の人たちの話をしていました。戦争で日本のために死んでいった若者たちです。
その特攻隊の本を買ってきて何度も見ていました。飛行機で攻撃する若い青年たちが、行きの片道だけの燃料しか入れず、生きて返ってくることが無いときまっている特攻隊です。
その青年たちが戦争に行く前に、家族に宛てた手紙が載っている本です。私も見ましたが家族に対しての感謝の内容。国のために死ぬというとこが英雄との内容。泣きながら私も読みました。
母も死が近づいているのが分かっているが、特攻隊の青年に比べたら私なんてすごく幸せに生きてきたと言っていました。
母のがん細胞はかなりの大きさまでになり、歩くこともだんだんと出来なくなり日常生活が困難になりました。痛みどめも効かなくなりだし、ついに病院に入院しなければいけなくなりました。